「ばぁぁぁ〜か!」
「ばぁぁぁ〜か!」
ㅤなんて部屋で一人、テレビに中指を立てて見せたところで虚しくなるだけなんてことは分かっていた。
はぁ、とため息をつくと映像は怒号の飛び交う議会の様子から可愛い賢い動物園のお猿さんに切り替わり、私はおとなしく手を戻して朝食の添加物もりもりメロンパンを咀嚼する作業に戻る。甘っったるい。
ㅤ今日は本来なら八時には家を出ないといけないはずで、なぜかというと九時には一限が始まるからで、大学四年生である私はこれまでのツケで大量に単位を取らないと留年確定、伸びに伸びて10月にやっと勝ち取った内定も白紙、また一年モラトリアムという名の就職戦線に繰り出さなければいけなくなってしまうのだけれど、今は十時半、もうすぐ二限が始まろうという時間に私はボサボサの頭をボリボリ掻きながらぼんやりテレビを見ている。親が見たら、泣くより前に確実に激怒する。
ㅤどうにかこうにか食べ終えると、惰性でのろのろと支度をして、11時。二限は西洋史概論、最後に中身のないコメントシートを書いて出しとけば出席点がもらえる楽な授業。
だけれども、二人がけのテーブルがいつも満杯になるきつきつの教室を思い浮かべるだけで、既に私は出る気をなくしている。
こんなに遅刻して来てやがるこいつ、という嘲笑の目線を浴びながら、最前列に置いてあるプリントを取りに行く気力が、今の私にはない。
ㅤ三限は現代についてなんか考える奴、四限は一般教養科目のマクロ経済学、と思い浮かべたところで、また自然とため息が出た。
耐えられない、というワードが、漠然と私の頭に去来する。何に?どうして?
ㅤドアを開け、曇り空の外にとりあえず出てみても、その言葉は消えないどころか、ますます執拗に脳内に絡みつき根を張っていくようだった。
ㅤ疲れてぼんやりとした顔をしたお母さんが、ゆりかごを機械的に揺らして、ぐずぐずと泣き止まない赤ん坊をあやしている。朝早くからドリルの音を響かせる工事の人々が、道端に座り込んで煙草をくもらす。
耐えられない。
ㅤ改札を抜け、電車に乗る。
誰かの咳が聞こえてくる他は、車内はひどく静かだ。視界には確かに沢山の人がいるのに、彼らは俯いて小さな画面の中に埋没し、あるいは眠り、あるいは視線を彼方に彷徨わせている。
ㅤ同じ空間にいるはずなのに、皆そこから消えさろうとしているみたいだった。誰もいない空間に、私だけが一人ぽっちでいるみたいだった。
ㅤ半ば夢遊病気味に駅を出てみて、ここが大学の最寄りじゃないことに気づく。いや、本当はホームに降りる前からわかっていたのだけれど、それを全部無意識のせいにしてしまいたかっただけだ。
ㅤ初めて降りる駅だった。なんとはなしに検索をかけてみて、東に少し歩くと海があることを知った。
海。今は少しでも、おっきなものを見たい気分だった。
ㅤ何年か振りに見た海はくすんでいた。
寄せては返す波で幾重にも包んで、底を決して晒さないその水面の佇まいは記憶のそれと一致していた。
けれど少し顔を上げると、埋め立て地に所狭しと立てられたビルが目にうるさいくらいで、それはまるで、海全体を、まるごと飲み込んでいってしまおうとしているように見える。
ㅤ「なにが、『母なる海』じゃ、ぼけぇ」
ㅤ私は悪態をついて、それから、どうしようもなく悲しくなった。
悲しくなったついでに、中指を海に立ててみたら、もっともっと虚しくなった。
分かっている。海は海で精一杯だ。私を受け入れる余裕なんてないんだ。私は、私自身で、私をどうにかしなくちゃいけないんだ。
ふと思い立って、自分に向かって中指を立ててみたら、すとんと腑に落ちる感覚があった。
ㅤ私は私が耐えられないという事実に耐えられないのだった。
私は笑った。